日常2

音楽とか映画とか本とかの感想と、日常について、つらつらと書いていきます。

「意識が高い」ということについて

前に書いた「意識が高い」ということについて、今日は自分なりの考えを述べていきたい。

といっても、考えというものは誰かの影響を受けて構成されるものであると個人的には思うので、おそらく今回の「考え」も誰かの受け売りだろう。

 

「意識が高い」

この言葉を初めて聞いたのはいつぐらいだろうか。

 

大学生時代、ボランティア活動をしたり、留学したり、NGOインターンシップをしたりしていた。

そのような行為が「意識が高い」ものであると定義付られ始め、また同時に他人から揶揄されたり、批判されやすいものであることも知った。

私はその言葉を最初に聞いたとき、そもそも「意識が高い」という日本語はおかしいのではないかとも思った。

 

「意識が高い」

 

今でこそ日常の中で普通に使われる言葉であるが、そもそも何の意識が高いのだろう。

意識というものは、物事を認知している状態を指すのではないだろうか。

その状態は、高低で表すことのできる状態なのだろうか。

 

「意識が高い」

とは、「(周りに対する問題)意識が高い」という言葉の要約なのではないかと考えることができる。

しかし、それにしては日本語が美しくないと個人的には思ってしまう。

 

近年、「意識が高い」という言葉は努力しているかしていないかという身近なレベルから、慈善活動という哲学的な考えを要する行動まで、あらゆる場面で使われている。

そのような状況の中で、私は「意識が高い」と言われている状態に対して誇りを持つ者と、「意識が高い」と皮肉めいた言葉を使う者の両者がいることを感じ取った。

この原因に関しては、努力を見せているか見せていないかの違いや、慈善活動や世の中のことを考える行為そのものについて批判が集まりやすいことなど、いくつかの要素があると考えられる。

まず努力を見せているか見せていないかの違いについて。

自分は努力している、というところを人に見せると、「意識が高い」と揶揄されてしまうことがある。なぜなら、批判者は焦燥感に駆られるからである。このような場合の「意識が高い」という言葉については、あまり気にしなくていいとも思う。

次に、慈善活動や世の中のことを考える行為そのものについて。

このような行為も揶揄されやすい。なぜなら、「人のために何かをする人間」を賛美する傾向が世の中にはあるからだ。そして、結局人のために何かをすることでその人は承認欲求が満たされると考えられるため、承認欲求が満たされない人にとってはお手軽に承認欲求を満たしてしまう人たちが憎たらしかったりするのだ。

また、慈善活動が本当に相手にとって「善」なのかどうかはわからない。単なるおせっかいで済んでしまうこともあるのだ。

 

ここまで現在の状況を踏まえて考えてきたが、最後に自身の考えを記したいと思う。

私としては「意識が高い」という言葉は好きではない。大前提として、日本語として美しくない。それならば「がんばってる人」「優しい人」「人のために活動できる人」など別の言葉でいくらでも代替できるだろう。

また、慈善活動そのものに関しては、賛成であるし偽善だとしても行うべき活動があるとも思っている。ただし、その結果として他人に悪影響を及ぼしたり単なる自己満足で終わることもあるということは念頭に置くべきだとも思う。また、慈善活動を行う人間が人格的に優れている保証はどこにもないということも真理であると思う。自分自身のために生きている人の中にも人格者はいくらでもいる。

 

以上、だらだらと分析を行ってきたが、これからも「意識が高い」という俗語は使われ続けるだろう。

究極的には言いたい人には言わせておけばいいだけの話なのかもしれない。