お正月休みにラルクアンシエルのオリジナルアルバムを全て聞いてみた(2)
※「お正月休みにラルクアンシエルのオリジナルアルバムを全て聞いてみた(1)」はこちら:http://mitomito1992.hatenablog.com/entries/2016/01/09
それではラルクのアルバム曲の感想第二弾に移りたいと思う。
今回はyukihiro加入~メンバーがソロ活動に入る前のアルバムまでを中心に感想を書いていく。
まずは、ドラマーがsakuraからyukihiroに代わった最初のアルバム「HEART」から。
このアルバムは全体的に重々しく、前作までと比べ、ハードロック調の曲が多いように感じ取れる。
このアルバムの発売前後からラルクアンシエルは一躍ミリオンセラーを連発するトップミュージシャンになっていくのだが、このようなハードロック調の曲が音楽チャートを席巻していた時代があると思うと、この時代に青春を過ごしたかったなあと少し後悔する。(管理人はHEART発売時は五歳であり、当時はロックに全く興味がなかった)
粒ぞろいの名曲が多く、個人的には「Shout at the devil」や「Promised land」は曲調も歌詞も退廃的な雰囲気がして、とても好きだ。
続いて、二枚同時アルバムリリースで話題になった片方の、「ray」の感想から。
こちらも「HEART」に引き続き、退廃的な曲調と歌詞の多いアルバム。
「HONEY」「花葬」「浸食~lose control~」という、シングル同時リリースの三曲が収録されており、他に「snow drop」というラルクの中でも一般的によく知られているシングル曲が収録されたアルバムだ。
「いばらの涙」はファンの中でも人気のある曲の一つであり、私もとても好きだ。
そして、個人的にこのアルバムは初めて買ったラルクアンシエルのアルバムであり、「死の灰」から始まるダークでロックな世界観に魅せられたのを覚えている。
前回の記事では「True」が一番ラルクの中で好きなアルバムであると言ったが、この「ray」もかなり好きで、何度も何度も繰り返し聞いたことを思い出す。
ラルクのアルバムの中で一番を決めるのは至難の業であることを感じさせられる一枚。
次に、「ray」と同日に発売された「ark」を紹介したい。
「ark」とは日本語で「箱舟」という意味がある。
このアルバムの中には「箱舟」という言葉が入った曲があるのだが、その曲とはラルクの曲の中でも比較的有名な、「HEAVEN'S DRIVE」のことである。
この「HEAVEN'S DRIVE」は私がラルクアンシエルにはまるきっかけとなる一曲であり、思い出深い。
Aメロのギターがジャカジャカ鳴ってるところから、開放的なサビを聞くと爽快な気分になる。
さて、アルバム全体を通しての印象は、一つ一つの曲は幻想的だったり個性的だったりするけど、全体を通して聞くとまとまりがないようにも思える。
アルバム全体として聞くのであれば「ray」を、好きな曲を好きな時に聞くのであれば「ark」を、個人的にはおすすめしたい。
さて、ラルクが実質的な活動休止に入る前の最後のアルバムである「REAL」の感想に移りたい。
このアルバムを作った当時のラルクアンシエルはかなり殺気立っていたらしく、アルバムにも尖った印象の受ける曲が多い。
しかし、今回改めて再度聞き直してみると、後半の三曲(「TIME SLIP」「a silent letter」「ALL YEAR AROUND FALLING IN LOVE」は落ち着いていて、救いのあるアルバムにはなっていると感じる。
特に「ALL YEAR AROUND FALLING IN LOVE」は明るいロックチューンであり(歌詞は不吉であるという解釈はあるが)、アルバムの最後に明るめの曲が来ることはラルクでは珍しい。
また、曲順が前後してしまうが、「a silent leter」はDUNE期を彷彿とさせるような、暗く落ち着いた曲である。
「REAL」の「bravery」という曲では「昔はよかったなんて言わないで」と歌っているが、「a silent letter」のような初期の曲調に近い曲があるあたり、ラルクはファンに対して飴と鞭のある、矛盾したロックバンドだと思う。
それでは、次回は活動を再開させたアルバム「SMILE」から、最新作である「BUTTERFLY」までの感想を書いていきます。
お正月休みにラルクアンシエルのオリジナルアルバムを全て聞いてみた(1)
あけましておめでとうございます。管理人のみとです。
今年もよろしくお願いいたします。
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さて、社会人になって初めての冬休みだったのだが、その休みの間、L'Arc-en-cielのオリジナルアルバムをすべて聞こうと思い立ち、DUNEからBUTTERFLYまで全て聞いてみた。
前回記事に少しだけ紹介したthe yellow monkeyの再集結が本日、情報として解禁されたが、ラルクアンシエルもイエローモンキーと同時期、もしくは少し後にブレイクしたバンドだ。(イエローモンキーについてはこの再集結を機にはまりそうなので、別途記事を設けたい。)
実は先日紹介したフジファブリックよりもさらに前から、もう足掛け10年以上も私はラルクアンシエルのファンである。
今回は、久しぶりに全てのアルバムを聞いた感想を書き連ねていきたい。
まずラルクアンシエルのアルバムは、インディーズ時代にリリースされた「DUNE」というアルバムから始まる。
初期のラルクアンシエルはダークな世界観が特徴的であるが、それに加えてどこかしらポップで明るくて切ない印象も受ける。
改めて聞き直してみて、「追憶の情景」という曲が意外と好きなことに気づいた。
続いて2作品目の「Tierra」は、メジャー1stアルバムであり、幻想的な雰囲気が漂う作品だ。
このアルバムに収録されている「Wind of Gold」が去年のライブで約20年ぶりに演奏されたことは記憶に新しい。
最後の曲である「White Feathers」は、ラルクファンの中でも人気のある名曲であり、私自身もとても好きだ。改めて聞くと、目を閉じながら聞いても絵画を見ているように、羽根が舞っている情景が浮かんでくる。
3作品目の「heavenly」も幻想的な雰囲気を醸しつつ、少しだけ前作よりもポップな印象を受ける。
今回改めて聞き直して思ったのが、「静かな海で」という曲はラルクの中でもかなり特異な曲であるということだ。
かなり変な曲調だし、最後は大合唱だし、歌詞は月に残された衛星探査機(もしくは別の地球から送られてきた機械)のことだし、どこをとっても個性的で、それでいて幻想的である。
聞いていて直感でしかないのだが、こういう曲はもうラルクでは作られないだろうなと思う。ラルクアンシエルの初期ならではの1曲。
4作品目の「True」はラルクアンシエル初のミリオンを達成したアルバムであり、ポップ色の強いアルバムである。
個人的には一番好きなアルバムであり、繰り返し何度も何度も中高時代に聞いていたことを思い出す。
今回久しぶりに聞き直してみて、やはり好きだなあと思った。どの曲もシングルにできるほど、一度聴いたら忘れられないメロディーラインのものが多い。
密かに「風にきえないで」をいつかライブで聞いてみたいと思っている。
(「風にきえないで」はラルクのシングル曲の中でも最もライブで演奏されないシングル曲(2006年に再発されたthe forth avenue cafeは除く)である。)
今回はインディーズ時代のアルバムからsakura在籍時までのアルバムを振り返ったので、次の記事ではyukihiro加入後のアルバムから、活動休止直前までのアルバムを振り返りたい。
フジファブリックというバンドについて
近頃、12月24日が近づくにつれて、私はフジファブリックというバンドのフロントマンを務めていた志村正彦さんのことを思い出していた。
フジファブリックは日本のロックバンドだ。
「若者のすべて」という代表曲があり、この曲は様々なアーティストによってカバーされているので、知っている人も多いことと思う。
このフジファブリックのボーカル兼ギターを務めていた志村正彦さんは、2009年12月24日に29才の若さでこの世を去ってしまった。
当時、友人の勧めでフジファブリックの音楽をよく聞いていた私にとって、そのニュースは衝撃的なものであり、知った瞬間のことはいまだによく覚えている。
その後のフジファブリックは、ギターの山内総一郎さんがボーカルとして歌い始め、現在でも活動している。
シングル曲はなんとなく聞いていたし、アルバムも一応音源としては入手していたのだが、どうにも曲を聞くと志村さんのことを思い出してしまうためか、全曲は聞いていなかった。
それが、最近何を思ったのか、山内さんがボーカルになってからのフジファブリックのアルバムを1曲目から最後の曲まで通して聞いた。(※ミニアルバムを除く)
新生フジファブリックとも言うべきか。この3枚のアルバムは、それまでのアルバムと比べてやはり曲の傾向は違う。ボーカルも、作詞作曲も別の人が行ってるから当然である。
(志村正彦さんが存命中も山内さんやベースの加藤さんやキーボードの金澤さんが作詞作曲に携わることはあったが、それらの曲でさえ今のフジファブリックとは違うように思える。)
けれども、私はこの三枚を聞くことによって、フジファブリックの魅力―ポップスとロックを融合したバラエティ色に富んだ曲―は変わらないのではないかと思ったのだ。
どの曲も、「フジファブリックらしさ」がどこかしらに生きているように思えた。
去年の武道館公演でのライブ以来、フジファブリックのライブには行っていないが、ぜひまた行きたいと思う。
そのときは今の彼らの曲を聞いて楽しむかもしれないし、志村さんがいたころの曲を聞いて、音楽は永遠だなんて思って感傷に浸るかもしれない。もしくは普通に楽しんでいるかもしれない。ああ変態的な曲調だなあとかなんとか思って。
最後に、志村さんが生前最後にフジファブリックとして出した曲である、「Four Seasons」という曲を紹介したい。
この曲はthe yellow monkeyのカバーであり、イエモンのトリビュート盤に収録されている。
残念ながらフジファブリックが歌ったものが見つけられなかったので、以下の音源は原曲のものになる。
最近職場の上司の影響でイエローモンキーも聞きつつあるのだが、それはまた別の話になるので割愛する。
最初フジファブリックがイエローモンキーのカバーをすると知ったとき、全くイメージがつかなかった。
曲風も全然違うし、合うのかどうかがあまり推測できなかったのだが、聞けば聞くほど何かしらの感情が胸にこみ上げてくる。
2009年12月24日から約6年が経って、新しいフジファブリックのアルバムを聞いて、志村さんの生前最後の曲*1も聞いて、時は進んでいると実感する。
来年はどんな音楽に出会えるのか、楽しんで色々なものを聞いていきたい。
*1:志村さんの死後、「MUSIC」という製作途中だったオリジナルアルバムがリリースされているので、遺作ではない
「意識が高い」ということについて
前に書いた「意識が高い」ということについて、今日は自分なりの考えを述べていきたい。
といっても、考えというものは誰かの影響を受けて構成されるものであると個人的には思うので、おそらく今回の「考え」も誰かの受け売りだろう。
「意識が高い」
この言葉を初めて聞いたのはいつぐらいだろうか。
大学生時代、ボランティア活動をしたり、留学したり、NGOでインターンシップをしたりしていた。
そのような行為が「意識が高い」ものであると定義付られ始め、また同時に他人から揶揄されたり、批判されやすいものであることも知った。
私はその言葉を最初に聞いたとき、そもそも「意識が高い」という日本語はおかしいのではないかとも思った。
「意識が高い」
今でこそ日常の中で普通に使われる言葉であるが、そもそも何の意識が高いのだろう。
意識というものは、物事を認知している状態を指すのではないだろうか。
その状態は、高低で表すことのできる状態なのだろうか。
「意識が高い」
とは、「(周りに対する問題)意識が高い」という言葉の要約なのではないかと考えることができる。
しかし、それにしては日本語が美しくないと個人的には思ってしまう。
近年、「意識が高い」という言葉は努力しているかしていないかという身近なレベルから、慈善活動という哲学的な考えを要する行動まで、あらゆる場面で使われている。
そのような状況の中で、私は「意識が高い」と言われている状態に対して誇りを持つ者と、「意識が高い」と皮肉めいた言葉を使う者の両者がいることを感じ取った。
この原因に関しては、努力を見せているか見せていないかの違いや、慈善活動や世の中のことを考える行為そのものについて批判が集まりやすいことなど、いくつかの要素があると考えられる。
まず努力を見せているか見せていないかの違いについて。
自分は努力している、というところを人に見せると、「意識が高い」と揶揄されてしまうことがある。なぜなら、批判者は焦燥感に駆られるからである。このような場合の「意識が高い」という言葉については、あまり気にしなくていいとも思う。
次に、慈善活動や世の中のことを考える行為そのものについて。
このような行為も揶揄されやすい。なぜなら、「人のために何かをする人間」を賛美する傾向が世の中にはあるからだ。そして、結局人のために何かをすることでその人は承認欲求が満たされると考えられるため、承認欲求が満たされない人にとってはお手軽に承認欲求を満たしてしまう人たちが憎たらしかったりするのだ。
また、慈善活動が本当に相手にとって「善」なのかどうかはわからない。単なるおせっかいで済んでしまうこともあるのだ。
ここまで現在の状況を踏まえて考えてきたが、最後に自身の考えを記したいと思う。
私としては「意識が高い」という言葉は好きではない。大前提として、日本語として美しくない。それならば「がんばってる人」「優しい人」「人のために活動できる人」など別の言葉でいくらでも代替できるだろう。
また、慈善活動そのものに関しては、賛成であるし偽善だとしても行うべき活動があるとも思っている。ただし、その結果として他人に悪影響を及ぼしたり単なる自己満足で終わることもあるということは念頭に置くべきだとも思う。また、慈善活動を行う人間が人格的に優れている保証はどこにもないということも真理であると思う。自分自身のために生きている人の中にも人格者はいくらでもいる。
以上、だらだらと分析を行ってきたが、これからも「意識が高い」という俗語は使われ続けるだろう。
究極的には言いたい人には言わせておけばいいだけの話なのかもしれない。
パスワードと夏と掃除
私は社会人1年目である。
緊張しながらも1日を過ごしたあの4月1日から、もう4か月が経ってしまった。
学生時代とはずいぶん違う生活をしており、辛いこともあるが、それなりに楽しんでいる。
入社してから、パソコンを使って仕事をする機会が増えた。
そして、パスワードを設定する機会も増えた。
前と同じパスワードでは危険であるため、毎回変えているのだが、はっきり言ってめんどうくさい。
かといってパスワードを勝手に入手され、自分専用のページに勝手に侵入されるのも怖い話である。
世の中はとても便利になった反面、オンライン上の情報が真実だと思いがちだけど、
結局機械を操るのは人間である。
コミュニケーションの形態は変わりつつあって、人と人が簡単に繋がったり離れてしまうけど、今やりとりをしている相手は自分と同じ人間であることを忘れないようにしたい。
夏になり、暑い日々が続いているが、そろそろ掃除をしたいなあと、
今年入って何回目かのパスワード変更をしながら思った。
ブログとSNSについて
ブログとSNSを比べたとき、比較的ブログのほうが好きだ。
SNSは交流することを目的とするけど、ブログは一方的にこちらが発信する媒体である。
だから、SNSに比べて人目を気にすることがないと個人的に思う。
思い返せば一番初めにネット上で人と交流した媒体は、掲示板であった。
確か中学生のときに、大好きだったラルクアンシエルのファンサイトの掲示板に書き込んだことがきっかけだったと思う。見ず知らずの人との交流は楽しかったが、段々と書き込むことが面倒になり、やめてしまった。
その後高校生になり、ラルク愛や邦楽ロック愛を書き連ねるブログを始めた。
今改めて見返すと痛々しいものもあったりするのだが、当時の自分の日常も知れて、懐かしい気分になる。
大学生になり、俗にいう「意識の高い」団体に入り、「意識の高い」留学をし、そこで感じたことを記録として残すためにまた新たなブログを始めた。たまにそのブログを見返すと、あの頃に感じた気持ちを再び思い出し、志だけ高くなるのだが、結果として残せていない現状に苛立つこともある。(「意識の高い」という言葉については時間があれば後日、記事を書きたい)
ブログはSNSとは違って、一つの記事に載せることのできる情報量が多い。
私がブログが好きな理由として、ブログに多くの情報量を書くことで、より多くの人に発信することが好きだからではないかと思う。何のために発信したいかと問われたら、自分の話を聞いてもらいたいという答えしか思い浮かばないが、かまってちゃんのような理由でも、いいのではないかと思う。
はじめてみよう。
というわけで、はじめまして。管理人のみとです。
・軽い自己紹介
社会人やってます。音楽と映画と本が好きです。
・主なブログのコンセプト
①管理人が日常で起きた出来事について考えたことをだらっと書く
②好きな音楽とか映画とか本とかについての感想
こんな感じでゆるくいきたいと思います。
よろしくお願いします。
実はこれまでブログは何度もやってて、日常系ブログは3代目だったりする。
1代目は(主に)高校時代、2代目は主に大学時代、
そして3代目のこれは社会人時代。
でも、社会人時代って超長いよなあ。
次に新しいブログをやるのはいつなんだろうか。
毎回ブログを書く意味。。。てなんだろうなあと考える。
高校はリアルとオンライン上の人を対象として書いていたし、
大学はリアルの友人を対象としていたし、
では社会人は?って考えると、難しい。
リアルとオンラインどっちもなのかな。
高校はわりと趣味中心で、大学はリアルでの出来事を忘れないために書いていたから、
社会人は趣味とリアルの出来事をごちゃ混ぜにした用途で書きたい。